昭和五十年十月二十一日 御理解 六十四節「此方は参って尋ねるところがなかった、氏子はおかげを受けて、遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎする様になれ」
身凌ぎと言う事をいろいろに説かれますけど、信心を受けなければ身凌ぎが出来ないのです、お徳を受けなければ身凌ぎができない、そこで此の方は参って尋ねるところがなかったところが皆さんの場合は尋ねる事が出来る、言わばお伺いする事が出来る、または御理解を確かに伝えさせて頂く事が出来る、また皆さんは聞く事が出来る。
教祖様の御教えを限り無く深く広く、まあ説かせて頂く、私もいつも思うのですけれどもああこれは私の頭脳から、私の考えで御教えを皆さんに聞いて頂いておるのじゃないと、そりゃもう日々それを思います、ですから此処えは皆さんが間違いのない、言うならば徳を受けて行く事のための行き方と言うか、そう言う信心と言うかそう言うものを間違いなく頂く事ができる、て行くことがでける。
しかもそれはとてもそう言う難しいことはできない、と言うのではなくて、お互いがその気になれば誰でもやってのけれる、誰でも行ずる事が出来る、と言うお話でありますから身凌ぎが出来るようなおかげを頂くためには、どうしてもお徳を受ける道を体得する、それを尋ねそれを求めると言う事にならなければならんと思うです、身に徳を受けてと仰る身に徳を受けてと身凌ぎをする様にと。
昨日は小倉の記念祭で御座いましたから、ここから菊栄会の方達が皆おかげを頂きました 私は八時と聞いとりましたから、そのつもりでおりましたら八時半だったそうです、それでしばらく待っております間に皆揃いましたけど、気が気じゃないのです、そりゃせっかくお参りさせて頂くのに座るところもなからねば、もう始まっとって半ばだからと言う様な事は大嫌いなことですから、ところが皆八時半と言うことだったから、集まりがおそいそれでこれはもう皆して集まったらと言うたところが、久留米の佐多さんだけがまだ見えとらんと言いますもん、そんならもう放ったらかして行こうと言うてお広前に出で来てから此処で御祈念さして頂きましたら、神様から小倉の記念祭よりも菊栄会を今日は真にすると頂きました。
してみるとなら一人でも放つたらかして行くわけにはいかん、と言う事になります、御祈念を終わらして貰って後ろを見たら後ろに佐多さんも来て御座いましたから、まあ放つたらかさんでも良いしまた、神様から頂いた事の通りの事が出来たと言う事なんですけれども、こう言う様な事でも本当に徳を受けなければ出来る事じゃないと思いますね、所謂御大祭なら御大祭に勿論大変なお祭りでございますから、それに縁につながるものがお礼参拝さしてもらう事が、これは当然の事ですけれども、それはね言うなら小倉の信心はもう迎春の信心、只それが九十年もたったからそれを記念のお礼のお祭りをさせて貰うと、もう私はそう言うな事をこんどの小倉の記念祭で本当に思いましたです。
もう或る意味ではもう抜け殻と言う感じでした、お参りは一杯でした、まあそんな事で御座いましたが成程合楽は合楽自身がシンであり、まあ菊栄会の昨日は方達の所謂菊栄会の方達の信心で御座いますから、菊栄会を中心にするそれを真にするんだと言う事を頂きましたわけでした。
それであっちへ着かして頂きましたらもう一杯でどこも立推の余地もない位で御座いましたけれども、丁度まいりますのと、先生方が出られる楽がはじまったばかりのところで、丁度おかげを、お祭りに間にあわせて頂きましたが、どちらの先生か私は知りませんでしたけれども、先生どうぞと言って言われますから、私があのお水をしよっちゅう頂きますから誰かついてこねばいかん、教師席の方へ文男先生だけが一緒について来てくれました。
もう丁度二人だけが座ったらおしまいでした、だれも座られませんでしたねと言うようにです成程、菊栄会をシンにして参りましたけれどもやはりおかげを頂いておる、まあそう言う中に神様の御守護の中に終日それを感じさせて頂きたんですけど、そう言う事がです、私は身凌ぎじゃなかろうかと思う、ですからやはりお徳を受けなければ、身動きが出来ない身に徳を受けて、身凌ぎをする様になれと仰るのですから、もう金光教の信心はどうでもこの教典のすべてがね、お徳を受けて行く事のための教えです。
しかも火の行水の行をせんならんとか、人間らしくないどう言うですかね、例えばあれを食べていかんとか、これを飲んじやならんとかと言うたような難しいこと一つも仰らずに 只真の人を目指すと言うこと、所謂真の信心を目指すと言うこと、それを日々の生活の中に頂いて行くと言う事。だから金光様の信心を本当に血に肉になる事がです、だからやはり頂かなければ血にも肉にもなりません、どんなにおごちそうであっても、見ただけでは血にも肉にもならんでしょうが、それを頂かなければならんのです。
しかも嫌々ながらでなくて、美味しう頂かにゃでけんごと出来るです、教祖様の御教えはだから本気で頂こう、今日の頂きどころはどこであったか、今日はこれをもって一日のシンににさせて貰おうと、昨日はだから私は一日を菊栄会を真にして、動かして頂きました もう本当に勿体ないおかげを頂かして貰いましたけども、信心が言うなら血になり肉になると言う事は教えそのものを、聞くのじゃない、頂くと言う頂き方、頂くと言う事は行ずると言うことになります。
ですから教えが金光教の信心が血になり肉になると言うところまで、信心を進めたいものですね、それには頂かなければなりません、血に肉に必ずなります、それが私は身凌ぎが出来ると言う事になるのです、この方は参って尋ねるところがなかった、教祖様の場合はもう本当に天地金の神様との巡り合いまでには、様々な御修行を下さったそして天地金の神様の直伝言うならば、御神徳の頂かれる信心例えて言うと今までは日柄の方位のと言う様な事にも心かけておられた教祖様がです。
御教えを頂かれる事によってどう言う事になったかと言うともう言うならば、それを迷信であると自分でも喝破されると同時に、その御教えをうけられて所謂自由自在、自由無得の世界に世界に住まわれる事が出来た、しかもそう言う天地に対するお粗末御無礼の行き方が前々の巡りで難を受けおる、難儀の元がここから起きてくるのだと、悟られたそこから教祖の神様に対する、天地金の神様の次々にお伝え下さる、一方では天地金の神様直伝の御教えである、金光教の御教えはそれなんです、しかも例えばそれは私共が頂こうと言う気になったら、とにかく有難く頂けれる、美味しく頂けれる、御教えばかりである。 この方は参って尋ねるところがなかった、それをです、ここでは皆さんが参って尋ねる事ができる、教祖様の御教えを又なら噛んで食べる様に、頂き良い様に、言うなら調理したり味を付けたりして皆さんに頂いて貰うとるわけですから、頂いて貰わなければ、私も神様に合い済まない気がするし、皆さんも頂いて貰わなければ、まあこんな馬鹿らしい事はないと思います。
皆さん本気で頂いて下さり合楽ではそう言うお徳が受けられる、しかも美味しく頂けれる頂き方を皆さんに聞いて頂けれる事でございますから、愈々信心して徳を受けて身凌ぎをする様な信心とは、教祖様の御教えが私共の血に肉になる事だと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ。